つながる医療と仏教/つながる医療と仏教

つながる医療と仏教

田畑たばた 正久まさひさ 佐藤とよかわクリニック 院長

 龍谷大学大学院に実践真宗学研究科が立ち上がる縁で龍谷大学に奉職することになり、同じ頃、本願寺の「あそかビハーラ病院」が医師の確保の助けになることを期待してか、本山が「西本願寺医師の会」を立ち上げることになりました。その機会に発起人の1人になってくれないかとの依頼を受け、賛同して発起人になりました。当時、がん診療の中でのがん 疼痛とうつうの対応に麻薬使用が普及して緩和ケアが関心をび、医療と仏教が同じ「しょう老病死の四苦しく」に取り組むことで、日本の医療に変化が起こることを期待していました。
 本願寺関係者の方と話をしていて、「お寺出身の医師はたくさんいますよ」と、医師の確保は問題がないような認識を持たれていたので、医師の確保は大丈夫なんだろうと傍観者的に見ていました。しかし、真宗寺院出身の医師を見ていて、聞法する人が少ない、寺から離れようとされている方がなんと多いことかと知らされ、本願寺関係者の方の強がりは見込み違いということを実感しました。
 私自身は周りに医療関係者が全くいない環境から医学部に進学、部屋代が安いということで九州大学仏教青年会の寮に入りました。運よく縁の巡り合わせで浄土真宗の師に巡り合い、学生時代から継続した聞法を始めました。秋月龍珉師の「医療と仏教は同じ生老病死の四苦に取り組むのです」との言葉に勇気づけられ、日本の医療に欠けた老病死への対応(老病死の先送りだけ)に、仏教の 生死しょうじを超える道のあることを知りました。
 医学が準拠する 分別ふんべつ思考の極みのような科学的合理思考は、自分を中心にして周りの事象を対象化して客観性を尊重するが故に、自分を反省したつもりでも、仏教から見ると浅く、自分の身心が痛まない程度の自省です。日本の医学は量的な思考は得意にするのですが、仏の智慧(無量光)に照らされて内観するような質的な深さが乏しく、自分自身の人生への洞察においても、思いや感情に隷属する危険性に気づかず、振り回される傾向を感じています。その延長線上では、患者のQOL(生活・人生の質)を考えたり、人生へ寄り添うことはほとんど不可能ではないでしょうか。
 京都大学名誉教授の福永光司師は、1991年の第23回日本医学会総会の記念講演で「現代の医師は技を求めることに急で、道を求めることを怠ったがために人々の尊敬を受けなくなった」と語っています。(つづく)

大乗2025年6月号掲載